賀茂台地の昔話 ~いのう・いのうと鳴る鐘(志和町)~
2021.05.01
志和町志和堀の市中神社(王子社)に応永十四年(一四〇七)という古い年号を持つ梵鐘(ぼんしょう)があり、その彫られた銘文(めいぶん)によると、豊前国上毛郡黒土荘(くろつちのしょう)の西光寺にあった鐘(かね)であることがわかります。
上毛郡黒土荘といえば今の福岡県築上郡吉富町に当たります。
そんなに遠くにあった鐘がなぜこの志和の地にあるのでしょう。
それには次のようないろんな話が伝わっているのですが、はっきりしたことはわかりません。
が、戦国時代この地の武士たちが大内氏や毛利氏に従って北九州方面へは度々出陣しており、陣鐘(じんがね)として使用したのではないかという説が一番近いかも知れません。
とくに、この地の武将天野隆重は豊前国を転戦、ことに同国京都(みやこ)郡刈田(かんだ)の松山城の城番も勤めたこともあり、うなずかされるものがあります。
しかし、隆重の手でこの地に持ち帰ったという話はありません。
志和町の西北隣は高田郡井原(今の広島市白木町)で、戦国時代ここの鍋(なべ)谷城主に井原氏がおりました。
井原氏は九州に出陣して、帰陣するとき某(ぼう)寺にあった鐘をさげて帰り、これを牛岩にあった鎌倉寺医王堂に吊り下げたという伝えが同地にあり、時代が下って鎌倉寺は遍鄙(へんぴ)なところなので、だんだん参詣(さんけい)する人もなくなり、志和堀杉坂の十力に移し、この鐘をここへ持ってきたといいます。
ところがある夜、盗人(ぬすっと)がこの鐘を盗んで逃げようとして、堀市の峠堂(たおどう)のところまできたとき急に鐘が「イノウ・イノウ」と鳴りはじめ、びっくりした盗人は鐘をそこへ放り出して逃げてしまいました。
それを土地の人が王子社今の市中神社へ納めたというのです。
のちに、井原から「あの鐘はうちのものである。その証拠には鐘が『イノウ・イノウ』と鳴ったというではないか、イノウは医王寺のことで、鎌倉寺のものである。だから返してくれ」と、強談判(こわだんぱん)があったといいますが、いまだにそのままになっています。
また、次のような話もあります。
志和内村の寺地というところに堂床(どうどこ)寺という寺がありました。
今も鐘楼の跡があり土器などが出てきます。
ある晩のこと盗人が鐘楼にしのびこんで鐘を奪い出し、志和堀の峠堂のところまで来たなら急に重くなり、しきりに「イノウ・イノウ」と鳴りだしました。
イノウというのは帰ろうということです。
盗人は驚いて鐘をほうり出して逃げてしまったのだともいわれています。
その後、ここでも堂床寺からもたびたび返してくれと堀の峠堂の人にかけあったのですが、峠堂の人たちはそれに応じなかったので、今でもそのまま王子社、即(すなわ)ち今の市中神社にあるのだといわれています。
この話、何かこの鐘の苦労話のようで面白いですね。
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