賀茂台地の昔話 ~お松明神(黒瀬町)~
2020.11.15
戦国時代の昔、黒瀬に一人の武士がおりました。
小さい山城(やまじろ)の城主でしたが、弓矢(ゆみや)とる武士が嫌(いや)になり、ついに城をすてて農民となりました。
農民となった彼は、今までやったことへの罪(つみ)ほろぼしにと黒瀬郷(くろせごう)の未開地(みかいち)の開墾(かいこん)を思いたちました。
開墾は苦しいものでしたが、武士の策謀(さくぼう)に満ちた生活よりはるかにはりのあるもので、一心にこれに打ちこみました。
つぎつぎ開かれて行く荒野(こうや)。
やがて何年かたって、稲穂(いなほ)の波が打ちよせる出来秋(できあき)の日がやってきました。
「よう、やって下された。黒瀬一円の産土神(うぶすなかみ)じゃ」と、村人はその徳を讃(たた)え、いつしか「百万(ひゃくまん)長者」とよぶようになりました。
その彼に〝お松(まつ)〟という一人の姫がおりました。
父の志(こころざし)をたすけ、昨日までの振袖(ふりそで)を今日は木綿(もめん)の筒袖(つつそで)にかえ、農民の娘になって働きました。
村人の中には「姫さまはかわいそう」と同情する者もありましたが、お松さまは一向(いっこう)にとんじゃくせず、美しい顔を真黒(まっくろ)にして働きました。
田植などは村の娘の先頭に立ちました。
村の若い男たちには、このお松様の田植姿はあこがれの的でありました。
一目でもお松様の田植姿を見ようと、遠くから押(お)しかけて来る者もいるほどでした。
いつしか村内では「お松様が田植をされぬうちは、田植をしてはならぬ」というおきてができあがり、厳重(げんじゅう)にそれを守り、また、それを誇(ほこ)りとしておりました。
そして、またある年、田植の季節となりました。
「今年もまた、お松様の田植姿が見られるぞー」
「そうよ、あれをみんじゃ、こっちも田植をする気になれんけんのー」
人々はよるとさわると、必ずそのような話になるのでした。
そして今日が、そのお松様の田植の日でした。
「さあ。お松様の田植がはじまるぞ」「今年も豊年(ほうねん)じゃ」と、村人はお松様の田植を見ようと一斉(いっせい)にとび出しました。
ところが、朝から降り出した雨は昼になってもやまず、やがて夜となり、風も加わって大暴風雨(おおしけ)となりました。
「こりゃ、大変(たいへん)なことになるどー」
「山がぬけんにゃいいがのー」
「川の土手が切れるかも知れんどー」
こうした村人の心配が本当になって、川上の西条から押し流されてきた濁流(だくりゅう)は見る間に黒瀬郷を海にしてしまいました。
半鐘(はんしょう)が鳴(な)って村人たちは急いで避難(ひなん)しましたが、どうしたことかお松様の姿が見えませんでした。
村人は手分(てわけ)をしてさがしましたがとうとうお松様の姿は発見できず、その美しい姿を永久に消してしまったのでありました。
それから二、三日たって、これは阿賀(あが)の海岸でのことでした。
一人の漁師(りょうし)が「おーい、早よう来てみい。前小倉(まえおぐら)に死人が流れついとるぞ、それもキレイな女(おなご)じゃ」と大声で知らせてきました。
人々は、海岸へ駆(か)けつけましたが、その溺死(できし)の女が誰かわかりません。
ところが急に若い一人の男が
「こりゃ、黒瀬のお松様じゃ。わしゃ田植のとき見に行って、よう知っちょる。お松様じゃ、間違いない!」
といい、ただちに黒瀬に注進(ちゅうしん)がとび、黒瀬から検分(けんぶん)に来て、お松様に間違いないことがわかり、嘆(なげ)き悲しみましたが、いまさらどうすることもできません。
丁寧(ていねい)に葬(ほうむ)り、祟(たた)りがあってはならぬとお宮を建てました。
それを「お松明神」とよび、田植の神様として大切にしました。
お松様が流れついた阿賀の小倉の浜は、のち埋めたてられ新開(しんがい)となり、時代の下った江戸時代の安政(あんせい)年間、この宮を新開に移しましたが種々怪奇(しゅじゅかいき)のことがあり、明治になっても他の神を併せ祀(まつ)ろうとして、社殿が崩れるなどのことがあったと伝えられ、今の小倉新開の松尾神社がそれだといわれています。
この話、黒瀬上保田(かんぼうだ)に房田万五郎(ぼうだまんごろう)という武士が、武をすて農となった話があり、それがモデルになったと思われます。
それにしてもお松様かわいそうでしたね。
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