賀茂台地の昔話 ~旦過寺のタヌキ和尚(西条町)~
2020.10.15
西条四日市(よっかいち)というと、今の国鉄山陽本線西条駅のあるあたりの町場(まちば)をいいました。
昔は宿場町 (しゅくばまち)として繁盛(はんじょう)したところです。
その町場の北西に旦過寺(たんがじ)というお寺がありました。
今でいうと、御建(みたて)グラウンドの西南の墓地の中に観音堂という小堂がありますが、その小堂が旦過寺の跡といい、昔は禅宗(ぜんしゅう)のお寺で、旦過とは「夕べに来(きた)って、翌朝行き過ぎる」という意味で、禅宗の行脚僧(あんぎゃそう)が来て一夜の宿を求めたところから出た名だといいます。
もう一つ、この旦過寺は戦国時代の天正十五年、島津征伐(せいばつ)のため九州へ向けて下向していた豊臣秀吉が三月十五日に宿泊していることでもよく知られております。
慶長年間廃寺(はいじ)となり、今は小堂となって残っておることは前にお話したとおりです。
それはさておき、この旦過寺にいつのころからか古タヌキが棲(す)みついておりました。
夜になるとこの古ダヌキは旦過寺の和尚(おしょう)さんに化けて、町や村へ出かけ、病人がいる家へ行き、
「わしゃ、旦過寺の和尚じゃが、あんたんとこには病人がいて困っとるそうじゃ。わしが〝やいと〟をすえて治してやろうと思うてきた」
と言って上がってくるのでした。
それがまたよくきくやいとで、
「旦過寺のタヌキ和尚のやいとは万病(まんびょう)にきく」
と、評判でした。
タヌキ和尚は、やいとをすえたお礼にもらった銭(ぜに)ですぐ酒を買いました。
四日市は酒のうまいところでよく知られていましたから、そのうまい酒を徳利(とっくり)に入れ、歩きながらその徳利をかたむけ、ほろ酔い機嫌(きげん)で帰って行きます。
中には
「和尚さん、今日はどこへやいとをすえに行きんさったんなら。あがりもんがえっとあったようで、ようがんしたのー」
と、やっかみ半分でからかう者もおりました。
ある日のこと、タヌキ和尚は遠く御薗宇まで、やいとをすえに行きました。
ところが酒好きのこととて、途中で酒を買い飲んでいるうちに大雨になり、西条川にかかっていた橋が流されてしまいました。
「はてさて困ったもんじゃわい」と思案していますと、ひとりの若者が来て荷物を頭にくくりつけて川を渡ろうとします。
そこでタヌキ和尚は
「わしは四日市旦過寺の和尚じゃが、川が渡れんで困っとる。すまんのじゃが、わしを肩にかついで渡してくれんかのー、お礼はたっぷりするけん」
「旦過寺の和尚いうたら、タヌキと聞いとる。お礼をはずむいうても、後であけてみたら木の葉になっとったらつまらんけー、やめとこうてー」
と、相手にしてくれません。
「そんなら、どうじゃ、あんたもわしのやいとのようきくのは聞いとろうがー、そのやいとのすえ方を教えるのと交換ではどうじゃ」
「そんなら、よかろう」
と、若者は和尚を肩車にして川を渡り、やいとのすえ方を教えてもらいました。
やいとのすえ方を習った若者は、それでやいと屋をはじめました。
ところがそのやいとがよくきいて「まるで旦過寺の和尚のやいとと同じや」ということになり、人々がどんどん押しかけてきて、若者はみるみるうちに大金持ちになりました。
ところが、反対にタヌキ和尚のやいとはそれを際(きわ)に、熱いばかりでちっともきかなくなりました。
あわてた和尚は仲間のタヌキを集めて相談しましたが「とにかく、若いもんのところへ行って、やいとをすえてもろうてみいやー」ということになり、タヌキ和尚はお婆さんに化け、御薗宇の若いもんのところへ行きましたが、そのやいとの熱いこと、とうとうがまんができず、やいとを背中にのせたまま逃げ帰ってきたということです。
それから、神通力(じんつうりき)を失ったのでしょう、頭に大やけどをしたタヌキが旦過寺の松の木の下で、日中でもうつらうつらしているのを見たという人がおりますが、それがタヌキ和尚であったかはわからないということでした。ハイ。
(話者・西条町土与丸、故岡田亀雄氏)
飯田米秋・編「賀茂台地の昔話」より
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