賀茂台地の昔話 ~狐のお産を助けてやった医者(志和町)~
2021.04.15
前に狐(きつね)の話をしました。
だまされた話、だました話、腹をかかえて大笑いをするような話。
馬鹿(ばか)ばかしくて聴(き)いちゃおれん、というような話でした。
で、今度はシュンとするような人間と狐の情の通い合うような話です。
幕末(ばくまつ)といいますから今から百二、三十年くらい昔の話です。
志和内村の中村というところに玄竜(げんりゅう)さんというお医者さんがおりました。
ある晩のことでした。
玄竜さんが寝ておりますと、表の戸をしきりにたたく者がおります。
出て見ますと、このあたりでは余(あま)り見かけない若者が立っております。
「どうしたんか?」
とききますと、若者は
「今、女房(にょうぼう)がお産(さん)で苦しんどります。夜分(やぶん)で誠(まこと)にすまんのでがんすが、診(み)てやってつかあさりませんか」
といい、
「駕篭(かご)を用意して来とりますけん」
といいます。
知らん若者ですから「あんたあ、どこの者(もん)なら?」とききますとこの山の奥の者だといいます。
玄竜さんは夜中で大儀(たいぎ)ではありましたが、難産(なんざん)と聴いてはすててもおけず、早速(さっそく)薬篭(やくろう)をかかえて駕篭に乗りました。
しかし、行けども行けども山の中で人家らしいものは一つも見えません。
一体どこへ連れて行くのかと不審(ふしん)に思って声をかけようとしますと「この家でがんす」と、一軒のあばら屋の前で駕篭をおろしました。
家の中に入ってみますと、女が七転八倒(しちてんばっとう)の苦しみ方をしております。
早速手当てをしてやり、夜明けごろになって無事お産をすませました。
男はよろこんで「有難(ありがと)うございました」といって、なにがしかの銭(ぜに)を「これはお礼です」と差し出しました。
玄竜さんが改めて家の中を見回しますと、家の中には家財道具は一つもなく、これ以上の貧乏(びんぼう)はあるまいと思われるほどのものでした。
玄竜さんは
「ええよ、あんたも子供が生まれたんじゃけん、これから大変じゃ、薬礼(やくれい)なんかええよ」
と断って、若者が送るというのを、
「夜が明けたんじゃ、歩いて帰る」
といって家を出ました。
しかし、いくら歩いても山の中から出られません。
とうとう歩き疲れて倒れてしまいました。
一方、玄竜さんの家では、いつまで待っても帰って来ないので、隣(とな)り近所の人に探してもらうことにしました。
この山は野呂山といって、今の福富町竹仁との境(さか)いにある高くて深い山でした。
滝があったり、千畳敷岩(せんじょうじきいわ)、硫黄岩(いおういわ)、キンタレ岩、カンザシ岩などたくさんの大きな岩や変わった岩、それに古い寺跡(てらあと)もあるので有名な山です。
今は段原無線中継所があり、遠くから望まれます。
玄竜さんは、そこの中の一つの岩の上に倒れており、そばに〝えんぼう〟が転がっておりました。
人々は早速助け起こし連れて帰りますと、玄竜さんの家の縁側(えんがわ)に一羽の雉(きじ)がおいてありました。
玄竜さんが難産の手当てをしてお礼も受け取らず帰ったそのかわりに持って来たのであろう、ということになりました。
そしてこれは人間ではなく狐ではなかったか? ということになりました。
ところで玄竜さんが倒れていたところに転がっていた〝えんぼう〟は、どうやら玄竜さんが乗った駕篭であったようです。
それからというものは、玄竜さんの倒れていた岩を〝狐岩〟とよぶようになったといいます。
玄竜さんの墓は今もあるといいますから、この話、本当だったのでしょうか。
これにそっくりな話は、黒瀬町にもあります。
黒瀬町の南は安浦町ですが、その間にはこれも志和のそれと同じ名の野呂山が横たわっております。
この野呂山にも狐の伝説は多く、今でも時々狐火(きつねび)が見えるといわれ、この狐火は狐の嫁入りの行列の火だといわれております。
ここでも真夜中に戸をたたかれた医者が、「女房が難産で苦しんでいる。診てやってほしい」と頼まれ、駕篭にのせられ山奥へ入り、その難産を助けてやります。
そのお礼に医者の家の田植は狐が総出して植えてくれたという話が今もいい伝えられております。
(話者・志和町志和東、岡本清徳氏)
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