賀茂台地の昔話 ~安宿と梶子姫(豊栄町)~
2021.07.01
賀茂郡豊栄町に安宿(あすか)というところがあります。
「やすやど、あんしゅく」と書きますが、これは大和(やまと)、今の奈良県の「とぶとり」と書く飛鳥(あすか)と深いかかり合いがあるのです。
第十九代允恭(いんぎょう)天皇の御名代部(みなしろべ)を「安宿部(あすかべ)」といいました。
御名代部というのは、その御名(ぎょめい)やなされたこと、即(すなわ)ちご事績(じせき)をのちのちまで伝える役目を負った人々のことをいい、この安宿はその人たちの領地で、それから出た名であるといわれております。
その証拠(しょうこ)といいましょうか、ここにすくも塚という古墳があって、それから鏡や馬具のくつわが出てきております。
立派なもので出土(しゅつど)したときはずい分と話題になりました。
その他、見土路(みとろ)というところには河内国(かわちのくに)のあすかにある古墳と石組などが非常によく似たものがあるなど、話題は尽きません。
大化(たいか)の改新(かいしん)以後は「安宿郷」とよばれ、古くから栄えた時代のあったことを示しております。
日本全国にはあちこち同じように「あすか」とよぶところがありますが、必ず大和国へ向けての出口「明日香峠(あすかとうげ)」というのがあり、ここにもそれがあります。
都へ行くにも都から来るにも必ずこの峠を通ったといわれております。
さて、この安宿を都と結びつけるいくつかの伝説があります。
その中の一つ「梶子(かじこ)姫」のお話をしましょう。
昔、安宿に上卿(じょうぎょう)という人がおりました。
それに一人の姫がおり、名を梶子(かじこ)といいました。
心やさしい人で貧しい人々や病気で苦しんでいる人々のため薬風呂(くすりぶろ)をたてて入浴(にゅうよく)させたり、薬を与えたりしてやりました。
これを千日(せんにち)風呂とよんでおります。
この梶子姫の話は隣りの吉原にもあり、さらには高田郡向原町坂にも伝えられております。
坂の場合は梶子姫は光明(こうみょう)皇后のことで、「かじ子姫」とは皇后の幼い時の名であるとし、同じように千日風呂の伝説があります。
光明皇后といえば第四十五代聖武天皇のお后(きさき)でありました。
聖武天皇は日本各国へ国分寺をお建てになりました。
西条町吉行にある安芸国分寺もそれですが、これには光明皇后のお考えが多分にあったといわれております。
光明皇后は貧しい人々や病気に苦しんでいる人々に施薬院(せやくいん)をつくり、薬風呂をたて、患者の膿(うみ)を自らの口ですってやったといわれるお方でした。
それに光明皇后は「安宿媛(あすかべのひめ)」ともよばれていました。
皇后自身が奈良の飛鳥でのご誕生なのか、お母さんの橘八千代(たちばなやちよ)が飛鳥に関係(かかわり)があってのことかであろうといわれております。
そうしたことから、光明皇后のなされた施薬院や千日風呂が伝説となり「かじこ姫」という幼ない時の名でもって、この安宿の地に伝えられているということは、やはり、この安宿が奈良の飛鳥と深い関係(かかわりあい)のあったことを知ることができます。
この安宿の助谷というところに聖光寺(しょうこうじ)という寺の跡があります。
今は観音堂が残っておりますが、これは梶子姫の建てたものといい、聖光寺の「聖」は聖武天皇の頭文字の「聖」をまた「光」の字は光明皇后の頭文字の「光」をとって名付けたものであると、地元の人は伝えております。
皆さん、お休みの日にお友だちと一緒に自転車を連(つ)らねこの聖光寺観音堂をたずねてみて下さい。
安置されている十一面観世音菩薩が、神秘の光の輝きの中に笑みをうかべられ、「よくきてくれた」と、この梶子姫の心やさしい話をして下さるかも知れませんから―。
前回のお話はこちらから
17.盗まれても帰ってきた観音さん(志和町・大和町・福富町)
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