賀茂台地の昔話 ~盗まれても帰ってきた観音さん(志和町・大和町・福富町)~
2021.05.15
前の市中神社の鐘の話、「イノウ・イノウ」は、―帰ろう、帰ろう―で、もとのところへ返してくれということなのですが、これに似た話もまた各地に伝えられています。
同じく志和の別府に西明寺という寺があります。
西明寺については、別の「伝説と歴史」のところで出てきており、非常に古い歴史を持った寺であります。
その西明寺に観音(かんのん)さんが安置されており、昔から「西明寺の一寸八分(五・五センチ)の観音さん」とよばれており、その観音さんのいわれには次のような話があります。
元文(げんぶん)のころといいますから、江戸時代の中ごろ、今から約二百四、五十年前のことになります。
もと西明寺のあったのは、現在の位置よりさらに西の七堂が坪山、別に西明寺山ともよびますが、そこにありました。
そのころここにたくさんの狼(おおかみ)が棲(す)んでいて夜になると里へおりてきて人畜(じんちく)に害を加えておりました。
そこで、当時の西明寺の法賢という和尚(おしょう)さんが三十七日間、狼退散の祈禱(きとう)を行いました。
そして満願(まんがん)の日、白髪(はくはつ)の狩人(かりうど)が現われ
「わしは観音菩薩(かんのんぼさつ)である。お前の願いのほどを聴き届けて、速(すみ)やかに退散させてやろう」
と、告げたかと思うと、見る間にその狩人は細くなって一寸八分ぐらいになり、消えてしまったというのです。
それからというものは、このあたりで狼のいたずらがなくなったといいます。
そしてそのときの観音さんが現代も西明寺に安置(あんち)してある観音さんだといわれております。
あるとき、不心得(ふこころえ)な男がいてこの観音さんを盗み出し、背負うて逃げ出しました。
ところが、だんだんその背負うた観音さんが重たくなって、しまいには一歩も歩くことができなくなりました。
そこで不心得な男は
「わたしが悪うございました。また、もとの西明寺へお返ししますから、お許し下さい」
と、お詫(わ)びをしますと、急にすーと軽くなったそうです。
そこでその男はその観音さんをもとのとおり西明寺へ返したといいます。
この西明寺のご本尊(ほんぞん)観音さんは秘仏(ひぶつ)で、三十三年ごとのご開帳(かいちょう)となっております。
さて、次のご開帳は? 一度そのご尊顔(そんがん)をおがみたいものですね。
◇ ◇ ◇
同じような話は大和町にもあります。
本郷谷に海見山深谷寺という寺がありました。
今は廃寺(はいじ)ですが、元は和気氏の祈願所であったといいます。
この寺のご本尊は蓮華台(しゃかだい)の上に座した観音さんでした。
昔、これも不心得者がいて二度もこの深谷寺から盗み出されたことがあるそうですが、夜になるとその観音さんが盗み出した不心得者の枕元へ立たれ
「深谷寺へ帰りたい」
と言いつづけられるので、不心得者はたまらなくなって、深谷寺へ返したということです。
昔は金色まばゆい美しい観音さんであったそうですが、そうしたことがあって光背(こうはい)も、装飾もはぎとられて、その美しさは失われたものの、観音さんの偉容(いよう)は昔のままです。
今はその土地の和気さんとおっしゃるお家におまつりされております。
◇ ◇ ◇
これは観音さんではありませんが、福富町久芳の小松というところに観音堂があり、その境内に竜神さんという高さ約四メートルほどの細長い石が建っております。
竜神さんという名ですから、きっと雨の神さんでしょう。
昔、高田郡の方のいたずら者が、
「あの石はかっこうがええから、もろうていのーやー」
と、ある晩大勢できて石を掘り、かついで観音堂の裏山をのぼり、村境の出合が原をすぎ、おどり場まで来たとき、余りにも難儀(なんぎ)なので一休みしようやということになり、石を放り出して休みました。
ところが、一休みしていざ石をかつぎあげようとしましたが、どういうわけか石が重くなってびくともしません。
あわててわいわい騒いでおりますと、竜神石を取られたことを知った小松の人たちが取りかえしにきました。
そして、小松の人たちがその石をかつぎあげますと、あれほど重くて動かなかった石が、まるで朽(く)ちた材木のように軽々とかつげるのです。
これをみた高田郡の人たちは恐れ入り「すまんことをしました」とお詫びをいったそうです。
それから小松の人たちは、この竜神さんを大切にし、毎年旧暦の二月十八日には掃除しておまつりをしておられるとのことです。
◇ ◇ ◇
このような話は、まだまだたくさんあります。皆さんもさがしてみてください。
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