賀茂台地の昔話 ~弘法大師とおばば(八本松町ほか)~
2021.06.01
この地方には弘法大師の話がいくつかあります。そのお話をして、なぜこのような話が生まれたか考えてみましょう。
篠村(ささむら)といえば今の八本松町大字篠ですが、ここに小川が流れており、そのほとりに一本の栗の木があって、見事な実がいっぱいなっておりました。
ある日、弘法大師がここを通りかかって、その栗の木の下にある家のお婆(ばあ)さんに「あの栗を一つわけてくれないか」と頼みますと、お婆さんはけちんぼうでしたので「あの栗はみな虫食いでとてもたべらりゃせん」と、しぶりました。
大師は「そうか、そんならあの栗はみな虫くいになるであろう」といって去って行きました。
それから、この栗は虫だらけになり、篠村一帯の栗にも虫がついたといいます。
その栗の木の下に石の橋がかかっており、そのときから「栗しぶり橋」とよぶようになりました。
その橋は、今も残っております。
また、ある日のこと、これも同じく八本松町になりますが、吉川(よしかわ)の下横野(しもよこの)というところを弘法大師が歩いておられました。
喉(のど)がかわいたので、そばの農家で一ぱいのお茶を所望(しょもう)されますと、出てきたお婆さんは意地悪で「ここのお茶はにごうて飲まりゃせん」と断りました。
それからそれからこの下横野のお茶は本当ににがくなったといいます。
今度は御調郡(みつぎぐん)栗原村といいますから今の尾道市になりますが、そこの小川のほとりでお婆さんが洗濯をしておりました。
そこを通りかかった弘法大師は「婆あさんや、その水とてもキレイじゃのー、わしに一ぱいめぐんで下されや」といいますと、振りかえったお婆さんは大師の服装があまりみすぼらいので、「はようあっちへ行ってくれ。お前さんのような乞食坊主(こじきぼうず)がこの水を飲んだら、川が汚れてしまうわい」と邪見(じゃけん)にののしりました。
弘法大師は「ばあさんや、姿より心が大切じゃよ。お前の汚れた心で、この川の水は一(ひと)しずくも流れんようになるよ」と、いって立ち去りましたが、間もなく本当に川の水は流れなくなったということです。
それからまた別のある日、弘法大師が世羅郡の宇根山のふもとを歩いていますと、大勢の子どもが栗の木に登って大騒ぎをしながら栗を取っておりました。
弘法大師は、そのつやつやした栗を見ますと急にたべたくなりました。
そして子供に少し栗をわけてくれんかと頼みました。
子供たちは見なれぬ旅の坊さんを見て一時はしゅんとしましたが、中の一人が人なつこい眼(め)を輝かせながら「うん、お坊さん、栗がいるならあげるよ。もっともいであげようか」と栗をさし出しますと、ほかの子供たちも我も我もと争って大師の掌(てのひら)に栗をのせました。
よろこんで大師はかたわらの石にどっかりと腰をおろすと、その栗をむいでうまそうにたべました。
やがてたべ終わった大師は珍しそうにまわりをぐるりととりまいている子供たちをながめながら「やあ、この栗はうまかったぞ。お礼にのー、今度からはこんな高い木にのぼらんでも、すぐとってたべられるようにしてやるからのー」と言われました。
それから宇根山の一帯には、手のとどくほどの小さいしば栗の木が生えて実がなるようになったということです。
この地方は今は安芸門徒(あきもんと)とよばれる浄土真宗(じょうどしんしゅう)の本場ですが、古くはみな真言宗(しんごんしゅう)でした。
西条三永の福成寺、志和の並滝寺、河内入野の竹林寺などは、古い歴史を持つ真言宗の寺であり、その他の寺でも真言宗の由来を持ったのが多く、そうしたことからこれらの寺院での説法の中での女人不成仏(にょにんふじょうぶつ)の思想(しそう)が意地悪婆さんとして形づくられ、地元の話として残ったのでありましょう。
それに対象的なのが宇根山の子供と栗の話で、その純心なのが仏法の理想の形として取りあげられたものと思います。
それにしても、あなたならお坊さんが栗をくれといわれたなら快(こころよ)くあげられますか?
きっとあげられますよね。この話を聞かれたあなたなら、きっと―。
前回のお話はこちらから
17.盗まれても帰ってきた観音さん(志和町・大和町・福富町)
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